クラフトマンワークスのお話 代表 峯正樹の歩んできた道
「無償の弁当」
私は南海紀の川駅の近くで育ちました。幼稚園のころ私は近所にあったスーパーで段ボールの空き箱をもらってきては、それをガムテープとカッターを駆使し段ボールハウスを作って遊んでいました。部屋のように組み立てて中に入っていたのを覚えています。これが大工という職業を選ぶきっかけになったのかもしれません。小学生までは活発で、性格は真面目、30年前でしたが中学受験するほど、毎日充実して過ごしていました。サッカークラブに所属し、山に虫とり、川で魚とり、公園で走り回るなど、塾にも行きましたが勉強嫌いな子どもでした。
塾は行きましたが勉強しないので私立中学の受験に失敗し、地元中学に入学します。この頃からグレはじめます。きっかけは1年生の終わりくらいです。毎日参加していた剣道部を辞めると暇になり、不良へまっしぐら。子どもなのに虚勢を張って生きることに命をかけるようになります。トラブルがあれば顔を出し、不良の世界に踏み入れていったのでした。
なぜそうなったかは今でも分かりません。興味本位もあり、そういう仲間もいて流されていったといえば無責任ですが、不良がかっこいいと思っていました。いろいろ無茶をしたので母親に身体は大事にしてほしいと泣かれました。だが何も受け付けず、深夜までだらだらしては、学校で寝て過ごす毎日でした。
高校は夜間高校に行くことになりますが、1年の1学期で退学します。この頃、家庭環境も不安定で、脱サラした父親の事業もうまくいかず、借金を抱えていたと思います。祖父母の家に住んでいて気を遣うことも多かったので、子ども心にこんな家早く出て行ってやると思っていましたので、夜間高校に行きつつ、昼間は大工の見習いをすることになったのでした。
15歳の私が、職業安定所で紹介されたのは町の工務店でした。何も分からず入社しましたが、社長である親方とは30年たった今でも付き合いがあり、感謝しても感謝しきれません。ならず者だった私を更生へと導いてくれた恩人で、大工としての技術はもちろん、人としての優しさ、厳しさも教えてもらいました。今でももう一人の父親のようにお付き合いさせて頂いております。
15歳の私は、まず仕事を無断で休みます。朝まで友達と遊んで、起きられるわけがないのです。夜間高校も辞め、自由な時間はたっぷりあります。家では肩身が狭くなり、いろいろな友人宅を転々としました。15歳から18歳までの3年間は大工として修業もしましたが、親方にも毎日指導されて、怒られていました。私はまだ幼く、甘えと怒りの渦巻く心で、まともな感じではなかったのでした。しかし親方は数々の不義理をする私をクビにすることなく、いつも見守ってくれていました。
転機が訪れたのは18歳のころ。朝起きられるようになって、仕事も覚えだし大工が楽しくなってきました。またこの頃親方の奥さんが、毎日私のために弁当を持たせてくれたのです。遅刻した日も、その弁当を食べていると、真剣ではなかったり、サボる自分が申し訳ないなと感じるようになりました。このままではいけないと思いました。そして不良グループもうまくフェードアウトできたのでした。
毎日時間通りに勤務し、日曜だけが休みという生活にも慣れ、現場をまかされることも多くなり、仕事のやりがいが生まれてきたのでした。今でも覚えているのは、あるリフォームの現場で引き渡しの時に、「いい仕事してくれてありがとう」と言われ、私が必要とされている感じた時です。仕事をさせてもらい「ありがとう」と喜んでもらえる事に、自分自身が喜びを覚えました。技術を磨いて、良い仕事をして、喜んでもらって、また「ありがとう」の言葉をもらえるように頑張ろうと、仕事に打込むきっかけとなりました。
20歳を超えると、さらに真面目になり、本も読みだしました。それまで勉強してこなかったのが嘘のようにいろいろな本を多読するようになりました。また20歳~26歳までは大工一本で親方とともに仕事に没頭しました。建築業は、その頃も浮き沈みがあり、親方の仕事がなくなれば基礎や他の大工さんのとこへ応援にいき、なんとか食いつないでいたと思います。その頃のいろいろな仕事も今になっては良い経験でした。
27歳で結婚し、30歳まで親方の会社にいるのですが、この頃は人間関係に苦労したかもしれません。親方と大工の間に挟まれ中間管理職になってしまい、人を使うことの難しさを知った時期でもありました。そして親方に無理を言って30歳でミネ住建として独立し、一人親方になって仕事を受注することになります。
と言ってもツテがないために、いろいろやりました。求人雑誌に載っていた全国区の大手ハウスメーカーに行ったときは1棟建てすぐ辞めました。そこの建築が悪いとかいうことでなく、木を使わないプラモデルを作るような建築は性に合わなかったのです。これはあかん!なんとか木材を使った建築をしていきたいと思ったのでした。これが現在のWB工法への未来になっているのかもしれません。
この後地元で有名なビルダーさんの下請けをすることになります。ここでとてもお世話になり100棟以上建てさせてもらうことになります。しかも建築ラッシュで人出不足になり、親方に安い日給で働いてもらうことにもなりました。辞めて迷惑をかけたのに、親方は何も言わず私を助けてくれました。やがて現在もいっしょにやっている赤阪君も入社し、家庭でも子どもも二人生まれ、公私ともに40歳までは忙しい日々を過ごさせて頂きました。
ハウスメーカーの下請けから始まり、地元ビルダーの下請け、個人顧客様からのリフォーム工事の依頼、増改築工事、店舗改装工事と順番に成長させてもらい、そこから新築住宅工事の依頼を頂く工務店にまで成長しました。
また、人生をかけて建築したいと思う通気断熱WB工法にも出会い、個人事業主として続けてきました「ミネ住建」でしたが、令和6年度からは、確かな技術と家づくりへの想いを一人でも多くの方々に届けるため「ミネ住建株式会社」と法人化し、改めて再出発しました。
円高や世界情勢による資材高騰もあり、住宅価格も上がったので会社運営においていろいろな方に心配もされましたが、仕事は選びませんし、食いつなぐのは昔からお手の物です。自暴自棄になっていた十代、親方の奥さんが弁当を作ってきてくれたから私があります。それに比べたら道が見えている今は何をおいても素晴らしい日々です。
今後、後進のため職人技術力の育成を目指し、CRAFTMANWORKS(クラフトマンワークス)=技術力の高い職人集団をシンボルとして掲げて、今後もお客様により良い住まいを提供できるよう家づくりに日々研鑽していきます。家づくりを通じて 「ありがとう」が「ありがとう」の輪をつくり喜びの輪が大きくなり皆様のより良い人生づくりになっていくように。オーナー様と一緒に成長し、年々暮らす楽しみが増えて皆様のより良い人生づくりになりますように、頑張って参ります。
最後になりましたが、親方、親方の奥さん、あの時ありがとうと言ってくれたたくさんのお施主さん、これまでお世話になったお客様、友人、先輩、仕事関係の人々、そして家族に感謝しかございません。もしご縁がございましたらお家のお困りごとの際はクラフトマンワークスへご一報ください。ビス一本から打ち付けに参ります。ご拝読いただきありがとうございました。